09.26
2012年09月26日(水) キラルくん
この家に足を踏み入れるたび、微かな違和感を覚える。
それは、自分が生きているという事実に対してだ。
再びこの地を踏みしめてから、かなりの時間が過ぎた。
だが、外出先から帰ってきて玄関のドアを開けると、必ずと言っていいほどの違和感に一瞬、足が留まる。
そのくらい、自分が故郷に戻ってきているという現実が未だに受け入れきれずにいる。
この家はあの忌まわしい事件が起きたあとに建てたものだ。それからすぐ碧島に渡ったから、長いこと空けていた。
久々に戻ってきた時、開いたドアの隙間からよく知っている空気と匂いが静かに流れてきた。
脳裏を巡る、今も色褪せない過去の記憶。
それは自分が復讐を誓った時の無残なものではなく、家族や仲間と楽しく笑い合っていた時の穏やかな記憶だった。
懐かしい匂いはあれからずっとこの家の中に生きていた。壁や天井、家具の隅々にまでしっかりと染みついているのだろう。
記憶よりもずっと濃い匂いに包まれて、まるで出迎えられたような気分になった。
自室も出ていった時の記憶のまま、何も変わっていなかった。
まさしく時が止まったようだ。
実際、この家の時間は止まっていた。
俺が扉を開いたことで、また少しずつ進み出した。
それが良いことなのか悪いことなのかは、わからない。
だが、拒まれている空気は感じない。
少なくとも間違ってはいないのだろうと思う。
ベッドに腰掛けると、体によく馴染んだスプリングの軋みが響いた。
ゆっくりと横たわり、息を吐く。
室内を灯すランプのほのかな光に合わせて、そこかしこで影が揺れている。
その光を胸元で緩く弾いている石は、アイスクリスタルと呼ばれるものだ。
以前に誕生日を聞かれたので答えたら、今朝渡された。
今日が誕生日だということをすっかり忘れていて、それで気付いた。
というより誕生日などどうでもいいと思っているから、つくづく律儀なものだと感心する。
この石の名前は初耳だった。
何か意味があるのかと調べてみたが、最近発見されたもののようで詳しい情報は特に出てこなかった。
ただ、この時代に見つかることに謎がある石ということだった。
つまり未知の石だから、何かしら新しい可能性を秘めているのではないかと言われているらしい。
この世界に何かメッセージを投げかけているのではないかと。
アイツはその意味やルーツを知っていて、俺にこの石を寄越したのか。
いや、そうではないだろう。
アイツのことだ。「なんとなくこれがいいと思ったから」程度の理由に決まっている。
それにしても……。
「新しい可能性、か」
呟くことで、自分には似つかわしくない異質の響きだと実感する。
新しい可能性とは、新たな生。
アイツによって留められ、終わらせるはずだった命を繋いでいる今。
果たして生きていて良かったのだろうか。
この先、生きていくことも含めて。
羽音が聞こえて視線を向けると、椅子の背に留まっていたトリがこちらへ飛んできた。
俺の肩に留まり、ぶるっと体を震わせる。
『その石はもらったものか?』
「あぁ」
『なかなか似合っているな』
「……フン」
『ところで、新しい可能性とはなんのことだ?』
自分でもさほど意識していなかった呟きを拾われて、トリを横目に見る。
「聞こえていたのか」
『お前にしては珍しいことを呟いていたのでな』
「フン。この石が持つ意味のようなものらしい」
『ほう……』
トリの語尾が意味深に上がる。
「なんだ」
『以前から聞いてみたいことがあったのだが、いいか?』
「あぁ」
『少し前の話になるが……。あの時、何故蒼葉に触れた?』
「あの時?」
『プラチナ・ジェイルでの話だ。眠っている蒼葉の髪に触れただろう』
「……あぁ。お前もいたんだったな」
そんなこともあったと思い出す。
オーバルタワーへ乗りこむ前日の夜。
眠っている蒼葉の髪に、確かに触れた。
「何故だと思う? わかるか?」
逆に問うてみる。
機械には人間の感情的な考え方が理解できないとわかった上での問いだ。
『ふむ……』
トリは少し考えこむような声を漏らし、首を左右に振った。
『俺はミンクが祈るところを度々見ているが、それに近いのではないかと推測した』
「……祈り?」
言っている意味がよくわからない。
髪に触れたことと祈りの何が似ているというのか。
「どういうことだ」
『あの時のお前が蒼葉にどのような感情を抱いていたのか、そこまで特定することはできない。だが、神に祈るとは救いを求め、慈悲を請い、神への愛と感謝を捧げるためのものだろう?』
「定義としては間違っちゃいないな」
『お前にとって、蒼葉は他の人間とは違う位置付けの存在だった。それは蒼葉に対する態度や扱いを見ていてもわかる』
「…………」
『最後まで蒼葉に本心を見せなかったのはお前なりの考えがあってのことだろうが、あの瞬間だけはそうではなかったのではないか?』
「というと?」
『逆に考えてみたということだ。たとえ僅かだとしてもそんな隙が生じるほど、お前は蒼葉に何かを感じていたのではないか』
……俺は少々、オールメイトというものを侮っていたようだ。
所詮は機械だから人の心を読み解くことはできないだろうと思っていたが、意外とそうでもないらしい。
『お前をそこまで突き動かすということ。それ自体が神に祈る行為に等しいと言ったのだが』
「……機械のくせに、口だけはやたらと達者だな」
『伊達にお前のオールメイトをやっているわけではない』
「……フン」
減らず口に思わず笑いが漏れる。
「確かに、俺はアイツから俺と似た匂いを感じていた。俺は死ぬために生きるという矛盾を抱き、アイツは望まないのに相反する人格を持ち、破壊を生み出すという宿命を抱えていた」
そうすることでしか生きられない。
その思いをアイツの中に見出し、共感していたのかも知れない。
俺自身、死と復讐を決意することに迷いはなかったが、それが正しいとも思っていなかった。
俺が一族のためにできることがそれだけだったということだ。
他に道などなかった。
だが、それは俺自身の話だ。アイツには関係ない。
本当はアイツも俺の目的を遂げるための切り札として使い捨てるつもりでいた。
そう思いながら、何故か頭のどこかでアイツは死なせるべきではないとも思っていた。
俺と似た存在だと感じながら、俺とは違うのだと。
生と死を併せ持つアイツの中に、自分とは違う可能性を見出していたのか。
俺たち一族にとって、死とはそれほど恐ろしいものではなかった。
神の御下へ旅立つことが死なのだと幼い頃から教えられていたから、死は生と同等に尊いものだった。
そのせいなのか。
アイツの中に潜むあの破壊的な人格に、一種の神性を感じてもいた。
全てを跳ね除けて突き進もうとする、純粋なまでに強い自我。
俺と似ているようで、違う。
アイツは死を操ろうとしていた。
『今でもそう思うか?』
今も、アイツから自分と似た匂いを感じているのかと。
その答えは、考えるまでもない。
「アイツは自分の中の矛盾を克服したからな。ひょっとしたら俺よりすごいんじゃないか」
軽い笑い混じりに言うと、トリは答える気もなさそうに片方の翼を広げて伸びをした。
『……ふむ。色々と聞いてはみたが、やはり俺には少々難しい話だ』
「そうか?」
『あぁ。お前と蒼葉の関係性が、俺にはよくわからない』
「タワーが崩壊した時、オールメイトのお前がわざわざ俺のところへ戻ってきたのと同じようなものだ」
『どういうことだ?』
「わからなくていい」
『?』
トリが不思議そうに首を傾げる様子に、僅かに唇を笑ませる。
コイツは意外と人間臭い。自覚はないのだろうが。
以前ならば、オールメイトにそんなものは必要ないと一蹴しただろう。
今は……。
長く話して一息ついたところで、ドアの向こうから廊下を歩く足音が聞こえてきた。
足音が止まり、ゆっくりとドアが開く。
「ミンク。飯できたよ」
ドアから覗いた顔を振り返り、俺は体を起こした。
「あぁ、今行く」
ベッドから下りると、トリが羽ばたいて肩に止まった。
そのまま、ドアへ向かって足を踏み出す。
生と死の共存。
その矛盾を乗り越えた者からは、青空を渡る風のような透明な匂いがする。
まだ、生の道を歩き続けていることに対する感慨はない。
喜びの光も見えない。
だが……
まずは食卓へ続くドアから漏れる、橙色の光の中にこの爪先を浸そうと思う。
そこにあるはずの温もりに触れて、透き通った風の匂いを感じるために。
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イラスト:ほにゃらら
テキスト:淵井鏑